感想

主に本や漫画の感想

部門別 2024年に読んだ本・漫画ベスト

 

 あけましておめでとうございます。

 嬉しいことに昨年は本当にたくさん本や漫画をを読むことができたので(Kindle Unlimitedのおかげ)、せっかくならそれらを「面白かった部門」「驚き部門」「読んでよかった部門」で分けてまとめて記録に残したいなと思う。特にランキングとかではなく、見返した順、思いついた順で適当に書いていく。また、それぞれの部門の選定基準や、入れるか迷ったが省いた作品のタイトルや理由なども併記したい。よければお付き合いください。

【面白かった部門】

選定基準(この中のいずれかに当てはまるものを選んだ)

・エンタメ性が高く読みやすい。

・一気読みまたは何度か再読した。

アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイルメアリー 上下』(小説)

・ネタバレすると面白さが半減するのでこれ以上言えないのが残念だけど、とにかく読みやすく面白い。文体は読みやすい以外の魅力は感じなかったけど、作劇や構成によるおもしろさのみでもここまでの読み応えを作れるのがすごいなと思った。

城戸志保『どくだみの花咲くころ』(漫画)

・小学校という制度に比較的馴染んでいるために自分は優等生で真面目であるという自認の清水くんが、癇癪持ちの信楽くんとの交流の中で、信楽くんの目線を通して徐々に相対化されていくのが面白かった。表情の描き方が一々ユーモラスで魅力的だし、焼き物の名前が苗字になっているのも、清水くんと信楽くんの接近理由が手作りの人形であることを考えると、なんか良いなと思う。

窪田新之助対馬の海に沈む』(ノンフィクション)

・元農協新聞記者のフリー記者が膨大な取材の末に描き出す、JAの複雑な組織構造を利用した不正の内実が怖いけど気になりすぎて一気読みしてしまった。JAのことを全く知らない私にもするする読ませる分かりやすい文章。

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(新書)

・日本の近代以降の読書史と労働史を照らし合わせながら、それぞれがどう影響を及ぼし合ってきたのか、という問いをそもそも持っていなかったし、それらが読みやすく綴られていたので、興味深く新鮮に読んだ。そこから導かれる現代の労働と読書の関係も、納得のいく着地だった。歴史的な記述の細部が粗めだなと感じることはあるが、全体的には満足!

アーシュラ・K・ル・グウィン『闇の左手』(小説)

・惑星ゲセンの寒々しい気候風土や、そこに住む両性具有の人々など、全く違う世界が比喩や情景描写、その土地に伝わる民話や神話などから徐々に見えてくるのが面白く、また、全く違う世界だからこそ他人同士が心を通わせ合う普遍的な描写のありがたみがあるなと思った。個人的には『赦しへの四つの道』よりも読みやすかった。

【面白かった部門落選作】

松井優征『逃げ上手の若君』(漫画)

・正直言ってめちゃくちゃ面白い。歴史上の人物の捉え方が新鮮なものから定番のものまで様々にあるが、どのキャラも魅力的に描かれていて好きだった。オリキャラも良い。歴史物では重要な戦や騎馬で駆けるシーンも迫力があり絵が綺麗。ただ、主人公や主人公周りの女性キャラが凄くフェティッシュに描かれるギャグシーンがかなり気色悪く、差し引きの結果マイナスになった。

小林有吾アオアシ』(漫画)

・サッカーという競技自体の戦略の面白さを描いていることはもちろん、日本サッカーシーンの問題点や未来をも真剣に考えている、めちゃくちゃアツいサッカー漫画。ただ、どうしてもサッカーに終始しているというか、テーマに普遍性を感じられないことと、作劇が単調であることが気になった。スポーツ系エンタメが好きな人にはオススメかも。

野田サトル『ドッグスレッド』(漫画)

・相変わらず絵も作劇も上手いし、軍隊的なマチズモが蔓延るホモソーシャル内の愛憎を全国優勝常連のアイスホッケー部を通して描こうとするのは素直に面白いと思ったんだけど、ゴカムでの第7師団の扱われ方を見るにつけ、結局愚かしくも愛おしい…みたいな方向に行くのでは?という疑いが晴れず、ゴカムと同じ顔のやつ(絶対わざと)がめっちゃいるのもその疑いを強めている。

 

【驚き部門】

選定基準

・びっくりした

平井大橋『ダイヤモンドの功罪』(漫画)

・この驚き部門は、この作品をどこに配置したら良いか分からなかったので作った。綾瀬川くんがあまりにもかわいそうなので、「おもろ!イェーイ!」とは言えないんだが、スポーツ漫画ってこういう角度でテーマに普遍性を持たせることができるんだという驚きが大きく、めちゃくちゃ印象に残った作品。別の記事で詳しい感想を書いているので、そっちもぜひ。

ヴァージニア・ウルフ灯台へ』(小説)

・視点がシームレスに移り変わっていく独特の文体にも驚いたんだけど、それによって描き出される、公的領域を司る家父長と私的領域を取り仕切りケア的役割を担うその妻などの近代家族の在り方が今のフィクションとすごく地続きであることに改めて驚いた。言葉の使い方が非常に面白い比喩によって描き出されていて、古びてないのもすごい。驚きと面白さが両方あり、読んで良かった。実質三冠かも。

【驚き部門落選作】

沼正三家畜人ヤプー

・「天皇」や「日本神話」など、世界大戦の原動力にもなったはずの「大和民族の血」を褒め称えるための動機の一切合切がひっくり返されており、敗戦の衝撃と民族主義への恨みをひしひしと感じた。人種主義宇宙帝国の設定がめちゃくちゃ作り込まれたすごい作品ではある。ただ普通にグロテスクな描写がキツく、読んでいる時は麻痺していたが今はもう思い出したくないので選外。

 

【読んで良かった部門】

選定基準

・読む意義のある内容

・味わい深い文体

遠野遥『破局

・今年のかなり前半に読んだので記憶がかなり曖昧だけど、文体や比喩がすごく面白かったので印象に残っている。同じ作者の『浮遊』も読んで、そちらも同じく文体の良さがあったけど、やはり『破局』の方がテーマの明快さ含めて読みやすかった。

東畑開人『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』『雨の日の心理学 こころのケアがはじまったら』(人文科学書

・友人に勧められて読んだ東畑開人の著作2冊、良かった。併せて読んだからこそ理解が深まったなと思ったので、どちらも選びました。認知行動療法的な、こころの動きを書き出したり認知したりしてコントロールするやり方も必要な時はあるし重要だとは思うが、それだけだとそれはそれでマッチョというか、精神ってもっとブラックボックスで、本人にも捉えることの難しいものなのではと思っていたので、そういった興味にピタリとはまった。2冊目の『雨の日の心理学』の方はケアする側の話も多く、そちらもとても為になった。

荒井裕樹『凜として灯る』(ノンフィクション)

・やっと読めたが、やはりめちゃくちゃ良かった。学園闘争の時代、学生運動に居場所を見出せなかった女性たちや障害者たちがどのように言葉を紡いできたのか、さらにそのどちらからも微妙に弾き出された立場の米津知子さんがどのように声を上げてきたのか。インターセクショナリティを考える上で、また生殖の権利について考える上でも非常に大事な作品だった。

ハン・ガン『少年が来る』(小説)

・国家によって激しい暴力が振るわれた数日間を、これでもかというほど詩的かつ静かな文体で描写することで、かえってその凄惨さが胸に迫った。また、構成や章ごとの一人称の変化などの工夫も凝らしてあり、読み応えもあった。実際の事件をこうした形で作品にするのが嫌な人もいるかもしれないが、私はありよりの手法だなと思いながら読みました。

ぱらり『いつか死ぬなら絵を売ってから』(漫画)

・「芸術」の価値がどのようにして作られるのかということを、児童養護施設で育ち、生活に苦しみつつも趣味でスケッチブックに絵を描いていた主人公と、その絵を見出したギャラリストの2人を通して描かれており、階級社会・人種差別・ジェンダー差別などの問題により芸術から弾き出される人々の視点を様々に織り交ぜようとしている、意欲的な作品だと思った。あと、登場する作品のコンセプトが本当にありそうで面白い。

 

 こうやってまとめてみると、漫画もかなり読んでるはずなのにその割に入らなかったなとか、小学生の漫画をふたつ選んでいるなとか、芥川賞受賞作などの中編小説もたくさん読んで面白いと思ったはずなのにここに選ぶほどの思い入れは無いんだな、とか色々と気づきがあって面白い。2025年分もこういったまとめを作ることができるように、今年はもう少し読んだ作品をまめに記録しておきたい。

 ちなみに大賞を選ぶとするなら、難しいけども、読んだ時の衝撃や人と話す時についつい話題に取り上げてしまう頻度などを踏まえると、やはり『ダイヤモンドの功罪』かな…と思う。読み味がめちゃくちゃ良い訳ではないので誰にでもおすすめはできないが、ぜひ読んだ人はコメントしたりSNSでリプライしたり口頭で話しかけたりして下さい。

 

2024年に読んだ漫画の中で1番の問題作『ダイヤモンドの功罪』感想

 

 注意!この文章は漫画『ダイヤモンドの功罪』の7巻時点までのネタバレを含みます。

 

 近年、漫画サイトやアプリの発達にそのまま流され登録しまくった結果、クーポンやポイント還元、セールなどのキャンペーンにたやすくひっかかり、ますます本(小説や人文書など)や漫画を買うようになった。

 その中で、今年出会って良くも悪くも強く印象に残った漫画が、週刊ヤングジャンプにて連載されている、平井大橋の野球漫画『ダイヤモンドの功罪』。運動神経抜群で体格にも恵まれたがゆえに、どんなスポーツをやっても嫉妬や羨望に巻き込まれ周囲の人間と上手くいかなくなってしまう小学校5年生の綾瀬川次郎(あやせがわ じろう)は、団体競技なら自分でも馴染めるはずだと野球を始めるが…というストーリーだ。

 まず一つ声を大にして言うが、子どもがかわいそうな目に遭っている様子が無理な人にはかなりキツい描写が続く。主人公綾瀬川次郎は明るく素直で人懐っこく、スポーツを習い始めるにあたっての第一目的は「友達と楽しくスポーツがしたい」である。しかし彼のその願いは叶わない(少なくとも7巻時点でそれが叶う環境は持続していない)。なぜなら、指導者はその才能に目の色を変えて過剰に入れ込み、同じ習い事をしている子どもたちの保護者は指導が不平等になるのではという不安を露わにし、そして子どもたちは周囲の大人たちの注目を一身に集める彼への嫉妬や羨望を募らせ、そうしてそのコミュニティーは彼を中心に崩れていくからだ。小学生離れした体格と勘の良さ、旺盛な学習意欲に、地道な努力も厭わない性格。スポーツをする上で誰もが羨む「才能」と呼ばれるものをことごとく備えた彼ならではの苦悩は、運動の才能を見出されたことも運動会で活躍したこともない私含む所謂平凡な人間にとって及びもつかない遠い話であり、突飛な設定による面白さはあれど、普遍性を持たせることは難しいのではないか、と読み始めた当初は思っていた。しかし不思議なことにそんなことはなく、むしろ思考実験的とも言えるような特殊な設定から確かに香る普遍性こそ、この作品の魅力なのではないか、と感じるようになった。と書きつつも、その普遍性の中身を未だはっきり整理しきれていないので、この文章を書く中でもう少し明瞭にできればと思う。よければお付き合いください。

 

 この漫画の大きなポイントのひとつは、スポーツの才能あふれる主人公の綾瀬川が、真剣に取り組むべき「競技」としてのスポーツには非常に不慣れであることではないか。

 たとえば、一番最初に入った草野球チーム『足立バンビーズ』の監督が勝手に選考会に応募してしまったために参加することになったU12日本代表の中で、小学5年生ながらも幼い頃からプロを目指して練習を重ねてきた選手たちと、「友達と楽しむ」ことを第一にプレーしてきた綾瀬川は中々理解しあうことができない。

「引き分けでいいならさぁ 一本か二本くらい…打たせてあげようよ」

(中略)

「意味わからん… やってこのまま ほぼパーフェクト… ちゅうかノーノー いけそやねんで」

「だからじゃん! (中略)もし向こうチームの打てなかった人がさ 試合…つまんなかったって 俺のせいで野球嫌になっちゃったら そんで野球辞めちゃったりしたら… そうなってからじゃ遅いじゃん! (中略)オレはわざと負けようとしてるわけじゃない! 勝つのが一番大切だってわかってるよ わざと打たせるのがあんま…すごいあんまよくないってちょっとわかるけど でも なんか かわいそうっていうか 点は…取れなかったけど でもヒットは打ててよかったよねって」

綾瀬川… おまえはカスや」

『ダイヤモンドの功罪』2巻第12話より

 これは日本代表チームと中学生の全国優勝チームとの練習試合にて、生まれて初めての試合登板ながら小学生離れした球威と制球で相手打線を圧倒している綾瀬川が、バッテリーを組んだ同学年のキャッチャー雛桃吾(ひな とうご)と試合中に会話するシーンである。

 私は真剣にスポーツに取り組んだことはないが、雛の怒りは理解できる。幼い頃から必死に練習を積み重ねたからこそ、同じように真剣に練習を重ねて全国大会での実績を残してきた選手たちに対して、かわいそうだから何本かお情けで打たせてあげようというのは失礼であり、同時に綾瀬川のピッチングに報いようと必死に勝とうとしている味方に対しても侮辱であると、そういうことだろう。私がもし雛の立場であっても、そう思うのではないか。

 だがしかし、綾瀬川の言葉もまた彼がしてきた苦い経験から出た真剣なものだということが、ここまで読んできた中で分かるようになっている。

 綾瀬川は歳の離れた姉が2人と年子の姉1人の6人家族で、金銭的な事情から小学5年生になってやっと念願のスポーツの習い事が出来るようになった。そして様々な競技のスクールを体験しに行くと、既にその競技を長くやっている他の子どもたちよりも上手にこなしてしまい、悔しさの余り泣き出して怒りを露わにする子どもたちを横目に見ながら入会を諦める…ということを繰り返してきた。母曰く「競争が苦手」という性格もまた、その決断を後押ししてきたのだろう。

 つまり綾瀬川にとって、「自分が上手すぎるあまり周りが野球を楽しめなくなってしまう」という状況は「疎まれて野球を辞めろと思われてしまう」という恐れにつながる事態であり、今までは体験入会程度で思い入れがなかった分疎まれれば辞める、を繰り返すことができたが、もうここまでやり込んで好きになってしまった野球は辞めたくない、それならば嫌われないようにするしかない、という思考回路につながっていくのだ。

 綾瀬川のこの状況はあまりに特殊である。しかしその特殊さゆえに、「遊び」としてのスポーツとは全く違う「競技スポーツ」という場の、文化としての特殊さもまた浮き立ってくるように思える。たとえば何よりも「勝利」こそが大切であり、そこにプレイヤーの感情は関係がない。「勝利」を目指して努力することは当たり前であるといったような。

 スポーツを経験した多くの人は子どもの頃「遊び」として始め、成長していくにつれて、もっと上手くなりたい、真剣勝負で勝ちたい、このまま和気藹々と楽しみたい、などそれぞれのニーズに応じて「遊び」か「競技」の選択をするはずである。しかし、そもそも綾瀬川にはその間に横たわる大きな違いを理解する暇すら無かった。誰もが綾瀬川の「才能」を目の当たりにした途端、「遊び」の場から「競技」の場へと移動させたがるからである。

 この話を友人との会話の中でした際(実際には上記の文章の100倍あらすじと自分の考えがごちゃまぜになった散漫な語りであった。聞いてくれた友人たちに感謝)、「大谷翔平になる準備ができていない大谷翔平」という言葉が出て、やけにそれにしっくりきたことを覚えている。まさに、綾瀬川は「準備ができていない」のだ。高校野球で一躍スターになった大谷は、完全に競技スポーツの中で生きていく覚悟ができていたと思う(プロ選手になるために曼荼羅を書いていたくらいだし)。だからこそ、その後の輝かしいキャリアを自分の足で踏み締めて歩むことができたのかもしれない。

 だとすると、「才能」とは何なのだろう。子どもの競技人生は、「才能」で決まってしまうものなのだろうか。明らかに「才能」あふれる存在として描かれている綾瀬川だが、その未来のキャリアは不透明だ。世界大会を終え日本代表が解散した後、地元の強豪クラブチームに移籍した彼は、中学生になって元バンビーズの友人と新しい草野球チームを作るという目標と、新しいチームメイトと勝ちたいという気持ちの間で板挟みになり、7巻時点でも未だに居場所を見つけられずに苦しんでいる。一方で、同じ日本代表で綾瀬川にエースナンバーを奪われてしまった同世代のピッチャー、巴円(ともえ まどか)は対照的に競技スポーツの中で努力を続けてきた子どもである。勝利に徹する強い心を持ち、試合に出られなくてもチームの雰囲気を良くすることに努めることができる。そして、雛と同じ大阪の強豪クラブチームで幼い頃から切磋琢磨しあい、エースにもなっている。野球をする上での揺るぎない拠点が巴にはある。

 しかし、日本代表のエースに選ばれたのは、綾瀬川なのである。

 その決断を行ったU12日本代表の監督やコーチたちをはじめとする綾瀬川たちを指導する大人たちの懊悩もまたこの漫画では印象的に描かれていおり、少年ジャンプではなく、青年誌のヤングジャンプで連載されている意味もここにあると感じた。「楽しみたい」という綾瀬川の希望を分かっていながら、その「才能」の引力に逆らえず、彼の望まないステージへと押し上げようとする指導者。競技スポーツ文化に馴染めない綾瀬川の言動を「天狗になっているのでは」と解釈する指導者。綾瀬川の性質を理解し、体と心が競技スポーツに長い目で育てたいと思いながらも、自らの子どものそばに置いておくことはできないと、保護者の視点で判断する指導者。言添えておくと、どの指導者もどうするのが綾瀬川のためになるのか、真剣に葛藤するような大人たちばかりである。様々な指導者の目線を経たことで、読者は、もし綾瀬川に接するとしたら?という想像を超え、再び「才能」という言葉にまつわる問いにたどり着くのではないか。

 この文章を書きながら、二宮知子の『のだめカンタービレ』という漫画のことを思い出していた。のだめ(野田恵)は、幼い頃から手が大きい上に耳が良く、その才能を見出されて有名なピアノ教師の指導を受けるもあまりの厳しさにドロップアウトし、以降我流の出鱈目な演奏を続けるようになるが、音大での千秋先輩との出会いをきっかけに、音楽への向き合い方を少しずつ変えていく…という物語だ。これもまた「準備ができていなかった人」の話であるなと思う。のだめはドロップアウトの後、自由に弾かせてくれるピアノの先生と出会い、音大でもまた彼女の音楽に気長に耳を傾け、評価する指導者や友人たちと出会った。

 

 綾瀬川はどのように準備ができていくのだろうか。それとも、準備を辞めるのだろうか。どうなったとしても、彼が笑顔になる展開が見たいと、そう思う。

 

※2025年1月5日一部修正・追記を行いました。