注意!この文章は漫画『ダイヤモンドの功罪』の7巻時点までのネタバレを含みます。
近年、漫画サイトやアプリの発達にそのまま流され登録しまくった結果、クーポンやポイント還元、セールなどのキャンペーンにたやすくひっかかり、ますます本(小説や人文書など)や漫画を買うようになった。
その中で、今年出会って良くも悪くも強く印象に残った漫画が、週刊ヤングジャンプにて連載されている、平井大橋の野球漫画『ダイヤモンドの功罪』。運動神経抜群で体格にも恵まれたがゆえに、どんなスポーツをやっても嫉妬や羨望に巻き込まれ周囲の人間と上手くいかなくなってしまう小学校5年生の綾瀬川次郎(あやせがわ じろう)は、団体競技なら自分でも馴染めるはずだと野球を始めるが…というストーリーだ。
まず一つ声を大にして言うが、子どもがかわいそうな目に遭っている様子が無理な人にはかなりキツい描写が続く。主人公綾瀬川次郎は明るく素直で人懐っこく、スポーツを習い始めるにあたっての第一目的は「友達と楽しくスポーツがしたい」である。しかし彼のその願いは叶わない(少なくとも7巻時点でそれが叶う環境は持続していない)。なぜなら、指導者はその才能に目の色を変えて過剰に入れ込み、同じ習い事をしている子どもたちの保護者は指導が不平等になるのではという不安を露わにし、そして子どもたちは周囲の大人たちの注目を一身に集める彼への嫉妬や羨望を募らせ、そうしてそのコミュニティーは彼を中心に崩れていくからだ。小学生離れした体格と勘の良さ、旺盛な学習意欲に、地道な努力も厭わない性格。スポーツをする上で誰もが羨む「才能」と呼ばれるものをことごとく備えた彼ならではの苦悩は、運動の才能を見出されたことも運動会で活躍したこともない私含む所謂平凡な人間にとって及びもつかない遠い話であり、突飛な設定による面白さはあれど、普遍性を持たせることは難しいのではないか、と読み始めた当初は思っていた。しかし不思議なことにそんなことはなく、むしろ思考実験的とも言えるような特殊な設定から確かに香る普遍性こそ、この作品の魅力なのではないか、と感じるようになった。と書きつつも、その普遍性の中身を未だはっきり整理しきれていないので、この文章を書く中でもう少し明瞭にできればと思う。よければお付き合いください。
この漫画の大きなポイントのひとつは、スポーツの才能あふれる主人公の綾瀬川が、真剣に取り組むべき「競技」としてのスポーツには非常に不慣れであることではないか。
たとえば、一番最初に入った草野球チーム『足立バンビーズ』の監督が勝手に選考会に応募してしまったために参加することになったU12日本代表の中で、小学5年生ながらも幼い頃からプロを目指して練習を重ねてきた選手たちと、「友達と楽しむ」ことを第一にプレーしてきた綾瀬川は中々理解しあうことができない。
「引き分けでいいならさぁ 一本か二本くらい…打たせてあげようよ」
(中略)
「意味わからん… やってこのまま ほぼパーフェクト… ちゅうかノーノー いけそやねんで」
「だからじゃん! (中略)もし向こうチームの打てなかった人がさ 試合…つまんなかったって 俺のせいで野球嫌になっちゃったら そんで野球辞めちゃったりしたら… そうなってからじゃ遅いじゃん! (中略)オレはわざと負けようとしてるわけじゃない! 勝つのが一番大切だってわかってるよ わざと打たせるのがあんま…すごいあんまよくないってちょっとわかるけど でも なんか かわいそうっていうか 点は…取れなかったけど でもヒットは打ててよかったよねって」
「綾瀬川… おまえはカスや」
『ダイヤモンドの功罪』2巻第12話より
これは日本代表チームと中学生の全国優勝チームとの練習試合にて、生まれて初めての試合登板ながら小学生離れした球威と制球で相手打線を圧倒している綾瀬川が、バッテリーを組んだ同学年のキャッチャー雛桃吾(ひな とうご)と試合中に会話するシーンである。
私は真剣にスポーツに取り組んだことはないが、雛の怒りは理解できる。幼い頃から必死に練習を積み重ねたからこそ、同じように真剣に練習を重ねて全国大会での実績を残してきた選手たちに対して、かわいそうだから何本かお情けで打たせてあげようというのは失礼であり、同時に綾瀬川のピッチングに報いようと必死に勝とうとしている味方に対しても侮辱であると、そういうことだろう。私がもし雛の立場であっても、そう思うのではないか。
だがしかし、綾瀬川の言葉もまた彼がしてきた苦い経験から出た真剣なものだということが、ここまで読んできた中で分かるようになっている。
綾瀬川は歳の離れた姉が2人と年子の姉1人の6人家族で、金銭的な事情から小学5年生になってやっと念願のスポーツの習い事が出来るようになった。そして様々な競技のスクールを体験しに行くと、既にその競技を長くやっている他の子どもたちよりも上手にこなしてしまい、悔しさの余り泣き出して怒りを露わにする子どもたちを横目に見ながら入会を諦める…ということを繰り返してきた。母曰く「競争が苦手」という性格もまた、その決断を後押ししてきたのだろう。
つまり綾瀬川にとって、「自分が上手すぎるあまり周りが野球を楽しめなくなってしまう」という状況は「疎まれて野球を辞めろと思われてしまう」という恐れにつながる事態であり、今までは体験入会程度で思い入れがなかった分疎まれれば辞める、を繰り返すことができたが、もうここまでやり込んで好きになってしまった野球は辞めたくない、それならば嫌われないようにするしかない、という思考回路につながっていくのだ。
綾瀬川のこの状況はあまりに特殊である。しかしその特殊さゆえに、「遊び」としてのスポーツとは全く違う「競技スポーツ」という場の、文化としての特殊さもまた浮き立ってくるように思える。たとえば何よりも「勝利」こそが大切であり、そこにプレイヤーの感情は関係がない。「勝利」を目指して努力することは当たり前であるといったような。
スポーツを経験した多くの人は子どもの頃「遊び」として始め、成長していくにつれて、もっと上手くなりたい、真剣勝負で勝ちたい、このまま和気藹々と楽しみたい、などそれぞれのニーズに応じて「遊び」か「競技」の選択をするはずである。しかし、そもそも綾瀬川にはその間に横たわる大きな違いを理解する暇すら無かった。誰もが綾瀬川の「才能」を目の当たりにした途端、「遊び」の場から「競技」の場へと移動させたがるからである。
この話を友人との会話の中でした際(実際には上記の文章の100倍あらすじと自分の考えがごちゃまぜになった散漫な語りであった。聞いてくれた友人たちに感謝)、「大谷翔平になる準備ができていない大谷翔平」という言葉が出て、やけにそれにしっくりきたことを覚えている。まさに、綾瀬川は「準備ができていない」のだ。高校野球で一躍スターになった大谷は、完全に競技スポーツの中で生きていく覚悟ができていたと思う(プロ選手になるために曼荼羅を書いていたくらいだし)。だからこそ、その後の輝かしいキャリアを自分の足で踏み締めて歩むことができたのかもしれない。
だとすると、「才能」とは何なのだろう。子どもの競技人生は、「才能」で決まってしまうものなのだろうか。明らかに「才能」あふれる存在として描かれている綾瀬川だが、その未来のキャリアは不透明だ。世界大会を終え日本代表が解散した後、地元の強豪クラブチームに移籍した彼は、中学生になって元バンビーズの友人と新しい草野球チームを作るという目標と、新しいチームメイトと勝ちたいという気持ちの間で板挟みになり、7巻時点でも未だに居場所を見つけられずに苦しんでいる。一方で、同じ日本代表で綾瀬川にエースナンバーを奪われてしまった同世代のピッチャー、巴円(ともえ まどか)は対照的に競技スポーツの中で努力を続けてきた子どもである。勝利に徹する強い心を持ち、試合に出られなくてもチームの雰囲気を良くすることに努めることができる。そして、雛と同じ大阪の強豪クラブチームで幼い頃から切磋琢磨しあい、エースにもなっている。野球をする上での揺るぎない拠点が巴にはある。
しかし、日本代表のエースに選ばれたのは、綾瀬川なのである。
その決断を行ったU12日本代表の監督やコーチたちをはじめとする綾瀬川たちを指導する大人たちの懊悩もまたこの漫画では印象的に描かれていおり、少年ジャンプではなく、青年誌のヤングジャンプで連載されている意味もここにあると感じた。「楽しみたい」という綾瀬川の希望を分かっていながら、その「才能」の引力に逆らえず、彼の望まないステージへと押し上げようとする指導者。競技スポーツ文化に馴染めない綾瀬川の言動を「天狗になっているのでは」と解釈する指導者。綾瀬川の性質を理解し、体と心が競技スポーツに長い目で育てたいと思いながらも、自らの子どものそばに置いておくことはできないと、保護者の視点で判断する指導者。言添えておくと、どの指導者もどうするのが綾瀬川のためになるのか、真剣に葛藤するような大人たちばかりである。様々な指導者の目線を経たことで、読者は、もし綾瀬川に接するとしたら?という想像を超え、再び「才能」という言葉にまつわる問いにたどり着くのではないか。
この文章を書きながら、二宮知子の『のだめカンタービレ』という漫画のことを思い出していた。のだめ(野田恵)は、幼い頃から手が大きい上に耳が良く、その才能を見出されて有名なピアノ教師の指導を受けるもあまりの厳しさにドロップアウトし、以降我流の出鱈目な演奏を続けるようになるが、音大での千秋先輩との出会いをきっかけに、音楽への向き合い方を少しずつ変えていく…という物語だ。これもまた「準備ができていなかった人」の話であるなと思う。のだめはドロップアウトの後、自由に弾かせてくれるピアノの先生と出会い、音大でもまた彼女の音楽に気長に耳を傾け、評価する指導者や友人たちと出会った。
綾瀬川はどのように準備ができていくのだろうか。それとも、準備を辞めるのだろうか。どうなったとしても、彼が笑顔になる展開が見たいと、そう思う。
※2025年1月5日一部修正・追記を行いました。